部分と全体

「(・・・)いつも、つぎの三メートルをがんばって克服することだけが問題であるように見えた。もしそれがいつも成功するならば、遂には頂上に到達するであろう。しかし事前に岩登りの全ルートのあらゆる困難を予想してみることは、ただ勇気を失わせるだけであるし、ひとは難しい場所に直面した時に、はじめて本当の問題を認識するというのも確かである。しかし私にとっては、そのような比較はまったく的はずれに思えた。私はー岩登りの喩えを続けるならー全登攀ルートに対する決心をすることからしか始めることができなかった。なぜなら、正しいルートを見つけたときに、そしてそのときに限って、個々の困難も克服できるものだということを私は確信していた。この比較における誤りは、私にとっては、岩壁の場合、それを人が登り切れるように作られているかどうかは決して確かではないという所にあった。しかしそれに反して自然科学においては、その関連は最後には簡明であるということを私は固く信じた。自然は理解され得るように作られているというのが私の確信であった。あるいは、より正しくはわれわれの思考能力は自然を理解し得るように作られていると逆に言うべきだろう」

ハイゼンベルク『部分と全体』より)

 

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 ハイゼンベルク曰く、自然科学においては、さいごには簡明なものが法則としてあらわれてくるそうである。ボルダーでいえば、ムーブが最適化されるということだろうか。すこしちがうような気もする。

 

 以上、送信おわり。