勉強マン

 宿題ってみんないうけど、なんか勉強みたいだなと、ときどきおもう。でもべつに嫌じゃないから不思議だ。

 

 大人になってから「勉強」というと「ちゃんとしている」感をだせるからか。大人になると目標と、それを達成したとき得られるものが見えてくるからだろうか。勉強というものは子どものころは嫌悪され、大人になると打算の表象となるようである。

 

 目標達成といわず宿題回収という、そのあたりにこの島の民の生真面目さがあらわれているといっていいのかどうか。そのへんはよくわからない。

 

 宿題を回収するスピードより宿題を生産するスピードのほうがはやい。それはそうだ。「そうでもない」というひとに私は出会ったことがない。

 

 そもそもクライミングの宿題を回収したときに得られるものってなんなのだろう? クライミング能力の向上の証? 自己の証明? 達成感? いろいろありそうだが、いまひとつピンとこない。

 

 「気づいたら岩の上に立っていた」だと爆発的な喜びが湧いてこないこともあるし、「あれ、もうすぐおわりか」とおもってトップアウトするときもあるから、これもいまもってよくわからない。むしろ寂しくなったり、空ろになったりすることさえある。

 

 結果としてなにかを得るために登っているわけではないということなのかもしれない。我らの幸せは登っている瞬間にある、なんて。

 

 先日、河原で未登とおぼしき忘れ去られたようなちっこい岩を登ろうとして、ラインすらきちんと引けていないのに、たのしかった。修羅ならアッサリ登るのかもしれないが、それでいいのかもしれない。ひょっとするといつまでもそんな感じかもわからない。