フィンガーボード?

 世界的に有名なクライマーたちのインタビューを聴いていると、思ったよりフィンガーボードをしていないような印象を受ける。アダム・オンドラしかりクリス・シャーマしかりである。

 

 とくに幼少期からクライミングをつづけている人間の場合、長年のあいだに指が適応しているみたいである。この点、大人になってからクライミングに出会ったわれわれのようなパートタイムクライマーは、フィンガーボードをうまく使って、安全に、地道に、気長に適応させていくよりなさそうである。

 

 よくいわれているように、腱や関節は筋肉に比べて適応するまでに時間がかかる。クライミングに熱中した大人が1〜2年のうちに指を痛めてしまうのは、概ねそのせいで、筋力に対して腱や関節の強度が追いつかないか、あるいは全身に負荷を散らすスキルが上がってこないうちに、早々に適応した筋肉から局所的に大きな力がかかってしまう、このあたりが痛める主な原因になっている。

 

 一般に、腱の柔軟性は30をすぎたくらいから下がってくる、とどこかで読んだおぼえがあるが、とくに裏づけがあるようにも見えなかったのであまり信じていない。たしかに、われわれ大人の指は、子どものように負荷に対して劇的な適応を示すことはないだろう。ひとまず完成されて久しいのが中年のボディである。それは受け入れよう。

 

 とはいえ、だからといって、なにをやっても無駄、ということにはならないから、この点は押さえておくべきである。おじいさんだってスクワットすれば効果がでる。腱に関してもそんなに悲観することはないだろう。根気よく、気長にケアしつづければ、身体は必ず反応する。落胆せず、投げださず、グレードを押し上げていきたい。

 

 いったいに、限られた時間のなかで向上しようとする大人クライマーにとって、クライミングだけでは徐々にもの足りなくなってくるのは事実だと思う。大人になってからクライミングをはじめて、登るだけであっさりプロレベルまで向上してしまったパートタイムクライマーの話を、私は聞いたことがない。

 

 クライミングだけではどうしても頭打ちになってきて、「もっと効率的に上達できないか?」と考えて、そこでフィンガーボードが登場する、話の順序は大抵こんな感じじゃないかと思う。

 

 本当は、きっと登るだけでいいのだろう。でも、時間は限られている。われわれはクライミングを好むが、仕事もあり、家庭もある。そこまで打ちこむことができない。

 パートタイムクライマーにとって、クライミングはどこまでいっても趣味である。そういうものとしてとらえ、その上で研鑽を積む、それでいいのではあるまいか。

 

 

 そんなわけで、限られた時間で、常識的な―まったく、これがいちばんの障害なのかもしれない―コミットメントのもとで精進するうちに、どこかで伸びなやむ。プラトーがやってくる。停滞する。一度や二度、いや三度なら、乗り越える。因果なことに、その度にプラトーは長く、突破しづらくなってくる。

 

 そこでフィンガーボードである。キャンパスボードである。負荷懸垂である。種々のトレーニンググッズである。ウェブ上の有料トレーニングプランである。おもしろそうだ。ほしい。金はある。

 

 ウン、大人はこれでいい。頭を使って、お金も使って、時間を買おう。

 それで先へいけるのなら、すすんで先の世界を見に行こう。高みに立たねば映らぬ景色もある。

 トライしてみて、その結果として、トレーニング器具が必要なくなった、あるいは不要とわかったなら、それはそれでいい。乗り越えたということなのだから。たのしい経験をすすんで買いに行こう。

 

 むしろ、プラトーがあまりに長くなると、あたかもそれが限界であると思い込むようになり、そうなると新たなトレーニングをとりいれることすら億劫になってくる。こちらのほうが余程よろしくない。

 とくにわれわれ大人クライマーは実際の限界よりはるか手前に線を引いている。言い訳はいくらでもできるし、ある程度まで努力して築いてきたものの範囲内で楽しむというのは、ごく普通のことだからだ。

 

 自らの防衛線内で生きるのはわるいことではない。その昔、パリに住んでいた人の中には、死ぬまでセーヌ川を見なかった者もいたという。そういうものだ。

 

 

 まあ、でも、そんな風に達観するそのまえに、もがいてみるか。趣味だからこそ、しなくたって生きていくうえで支障がないことだからこそ、目の色変えてあがいてみよう。

 クライミングというほんとうに魅力的な遊び、それを趣味として行える贅沢さを噛みしめつつ、有難く享受しよう。