判断力批判

 学習は選択的に、近視眼的になりがちだ。自分なりのルーティーンを確立して、それをつづけているとして、それでここまで強くなれたという場合、その強さでこの数年伸び悩んでいる、そういう場合、再考してみるべきかもしれない。

 

 「ひとは自分の見たいものを見る」ということわざがあるが、同様に「ひとは聞きたいものを聞く」ようである。トレーニング法や心構えについて友人と話しているときでさえ、ほぼほぼ無意識に自分の考えに合う部分だけを聞きとって、それで自説を補強しているような具合である。

 

 築きあげたルーティーンが「定期的に入れ替わる弱い環に打ちご」以外である場合、ためしてみるべきは

 

1自宅にあるトレーニング本を読み直し

 

2よく閲覧するトレーニングサイトを読み直し

 

3仲間の話を聞きなおす

 

 ・・・このくらいだろうか。

 

 ふだん我々はピンと来ない部分はすっとばして、心当たりの部分だけをよく読んだり聞いたりしているはずだ。結果として、その部分だけはよく訓練することができるものの、それ以外がおろそかになってしまう。

 

 「ダニエル・ウッズもTRXやってるし、これはまちがっていない」「アダム・オンドラもキャンパしまくってるし、やっぱりキャンパだ」等々。実際その通りだ。でも、彼らが鬼のように強いのは、それだけをこなしているからではない。そしてその「他のこと」は我々の目を素通りしてしまう。

 

 虚心に吟味して、耳に痛いことを実行する。知っていることはとばしていい。もう知っているのだから。われわれが聞かないようにしているもののなかにこそ、上達のきっかけが眠っていると、そう思う。

 以上、連絡おわり。