過程と結果

「大事なのは結果ではなく過程です」

 

「登れるかどうかじゃない、岩場で仲間と登る時間がたのしいのだ」

 

 そうはいっても完登したいよね、という。もちろん過程は重要ですけれど、俺たちゃ完登したいのだよ。登れても登れなくてもいいなんて境地には、私はまだ入れていません。

 

 われわれは向上するためにプッシュしている。完登はプッシュした結果で、向上の一部を成し、上達過程におけるメルクマールとなる。もし完登がなかったら、われわれはどこか暗いところに迷い込んでしまうだろう。

 

 

 過程と結果を見つめる眼差しにどうやって折り合いをつけるか? なんだいなんだい、難題なんだな。そうだな、例えばこんな感じか。

 

1 落ちたとき:完登に至る過程において、何かが/どこかがちがっていた

 完登に向けた努力なら何でも肯定されるわけではない。何がちがっていたのか考えて、都度修正していこう。

 

2 登れたとき:過程は報われた、すなわちプロセスは全体として善きものだった

 さっそく新たな目標に同じやりかたで臨んで、うまくいくか試そう。とくに何がよかったのかを心に留めて、取り組みかたを洗練させていこう。

 

 完登の過程で失敗しまくる。失敗するのはつらい。つらくないふりをするのは、それは欺瞞だ。学びの過程に失敗が必要なのは理解している。成功についても同じことがいえないだろうか。完登はそれじたいを寿ぐだけでなく、それがどんな風に善かったのか学ぶのにも使いたいものである。

 

 もしあなたが岩場で久しく完登を味わっていないなら、自問してみるのもわるくない。努力の方向が合っているかどうか、己に問うてみてもいい。

 ひょっとすると置いたハードルが高すぎるのかもしれない。大目標に至る小目標がおざなりになっているかもしれない。小さなことだが何か前提の見落としがあって、それと気づかず落とし穴に何度も頭から突っ込んでいる可能性もある。

 

 同じことはいつも完登できているクライマーにもあてはまる。十分にプッシュできているか? このままでいいのだろうか? 失敗から学ぶものは多い。いつもいつも完登ばかりしていると、知らず知らず学びの機会を逸しているかもしれない。

 

 この辺のバランスをどこに置くかは、筆者の手には負いかねる問題である。残念ながら。

 

 

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